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最高裁判所第三小法廷 昭和54年(ク)392号 決定 1980年3月06日

抗告人

佐々木真佐子

右代理人

横路民雄

外三名

主文

本件抗告を却下する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

最高裁判所が抗告に関して裁判権をもつのは、訴訟法において特に最高裁判所に抗告を申し立てることを許した場合に限られ、民事事件については、民訴法四一九条ノ二に定められている抗告のみが右の場合にあたる。ところが、本件抗告理由は、違憲をいうが、その実績は原決定の単なる法令違背を主張するものにすぎず、同条所定の場合にあたらないと認められるから、本件抗告を不適法として却下し、抗告費用は抗告人に負担させることとし、主文のとおり決定する。

(江里口清雄 環昌一 横井大三 伊藤正己)

抗告代理人横路民雄、同江本秀春、同村岡啓一、同上田文雄の抗告理由

(証言義務と公正な裁判を受ける権利)第一、原決定は「新聞記者の取材源」を民事訴訟法第二八一条一項三号に規定する「職業ノ秘密」に該当するとして相手方(証人)島田英重の証言拒絶権を認める旨の決定をした。然るに右決定は民事訴訟法第二八一条の解釈適用を誤り、憲法第三二条が保障している特別抗告人の裁判を受ける権利を侵害するものであるから、違憲な決定であり取消されるべき決定である。その理由は以下のとおりである。即ち、

そもそも国民は、裁判所が特定の訴訟において特定の者を証人として尋問する旨の証拠決定をした場合、証人となるべき公法上の義務、所謂証人義務を負担している。この証人義務の内容は、証人として出頭し、宣誓し、かつ供述(証言)することを意味するものであるが、中でも証言を求められることがその核心的内容になる。ところで、このような義務を国民が負担している理由ないしは根拠はどこにあるのであろうか。たしかに、民事訴訟法第二七一条は国民の証人義務の根拠条文とされているのであるが、より根本的な憲法の観点からながめるならば、次の二つが証人義務の根拠であろうと考える。即ち、第一は、国家の司法作用、裁判制度(憲法第六章)そのものに内在するものとして国民に負担させねばならないものとしての証人義務であり、第二は、国民の権利という側面から、国民の裁判を受ける権利(憲法第三二条)の反面として、ないしはその実質的内容として、証人義務は国民が等しく負担しなければならない義務として根拠づけることができる。何故ならば、近代国家における紛争の解決は法の適用によつて行なわれなければならず、その法の適用においては事実認定の客観性を担保するため、証拠による事実認定が必要とされるからである。このことは、憲法自体その第八二条において裁判は対審構造をとることが前提とされ、かつこれを公開することによつて裁判の公正を確保しようとしていることからも自明のことというべく、公正な裁判を実現するため国家の司法作用そのものから国民に証人義務、証言義務が導き出されると考えられる。そしてこれを国民の権利の側面から把えかえすと、右のような意味内容を有する公正な裁判を国民が国家に対して請求できる権利又は、憲法第三二条に保障する「裁判を受ける権利」であると考えられる。このように、国民の証人義務、証言義務は、憲法第三二条の裁判を受ける権利(これを訴訟当事者の立場からみると、裁判所を介しての証人に対する証言請求権とも言えるであろう)にその憲法上の根拠を求めることができる。従つて、この証人の証言義務の免除を認めることは、ただちに国民の裁判を受ける権利(=証言請求権)という憲法が保障する基本的人権を制約する意味を有することになるのである。

然るに、民事訴訟法は、その第二八〇条及び第二八一条において特定の証人・特定の事項につき証言拒絶権を認める旨規定する。これは前述の観点からすれば、裁判の当事者から、裁判所を介して証人に対し証言を求める権利を内容とする「裁判を受ける権利」を奪うことを意味するのである。このように「裁判を受ける権利」を民事訴訟法によつて制限できる根拠は何か。国法体系上、憲法上の権利を下位法によつて制限できないことは当然であるから、右民事訴訟法第二八〇条・第二八一条の規定は、憲法上の他の権利・利益を具体的に規定することによつて、証言を求める権利との調整をしていると考えざるを得ない。

これを原決定が、解釈・適用した民事訴訟法第二八一条一項について考察すれば、その一号が認めるところの憲法上の利益は、公務員の職務上の秘密という国益であり、その二号は、医師・弁護士等、業として他人の秘密を扱う者に対し、証言義務を免除し、依頼者らの人格権(憲法第一三条)を擁護し、かつかかる職業自体をも保護しようとするものであり、三号は、憲法第二九条の財産権の保障に由来するものと把えることができる。

このように把えてはじめて、民事訴訟法第二八一条を、憲法上の権利である証言を求める権利と、他の憲法上の権利・利益との対立調整規定として理解することができるのである。

然るに、原決定は、新聞記者の取材源を民事訴訟法第二八一条一項三号の「職業ノ秘密」に該当すると判断したのであるが、前述のとおり、そもそも右三号において「職業ノ秘密」が挙げられている理由は、憲法二九条に保障する財産権との対立調整から認められているのであつて、「取材源の秘匿」によつて守られるべき人権「報道の自由」「知る自由」「表現の自由」という精神的自由権による制約は、同号においては全く予定されていないのである。このことは、同号が「職業ノ秘密」と並列して「技術」を挙げていることからも明らかであろう。また、このような観点を欠落させて、原審の判断の如く「職業」というものを解釈するならば、そこにはあらゆる職業を含ませることが可能となり、国民の裁判を受ける権利という基本的人権の制約を無限定的に認める道を開くことになるであろうし、更に、第二八一条一項が二号と三号を区別して規定したことの意味も失なわれることになるのであろう。にも拘らず、原決定は「報道の自由」を擁護する手段としての取材源の秘匿を本来的に財産権保護との調整規定である三号の中に押し込めて解釈するという法理論上の誤りを犯して、証言義務を免除する決定をし、特別抗告人が裁判所を介して証人に対し証言を求める権利、即ち、公正なる裁判を受ける権利を侵害したものであるから取消を免れない。

第二、報道の自由と名誉侵害

一、(新聞報道の二面性)

新聞報道は民主々義社会において広く国民に公共的関心事項について資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するという公共的使命を担つている。

従つて、このような新聞の報道の自由が、憲法二一条の表現の自由のもとにあることは言うまでもない。またこのよううな公共的使命に鑑み、報道を目的とした取材活動の自由も保障されなければならない。

憲法二一条で保障された報道の自由は、国家からの自由あるいは国家への自由という意味で対国家との関係で存在すると共に対市民との関係でも存在する。社会の発展に伴い新聞が巨大化独占化するにつれ、「第四権」と言われるほどの大きな社会的権力を有するに至り、その影響力は絶大となつている。しかし新聞は莫大な量の情報の中から、社会的事象を日々迅速に報道することを要請されるが故に、誤つた報道がなされる危険性を内包しており、その場合、立場の弱い一般市民に対しては、計り知れない程の影響力をもつて回復不能な人権侵害を惹起することになる。従つてこのような新聞報道の二面性を理解することなしに報道の自由を無制約絶対的な自由と解するのは誤りである。

二、(名誉権の保障)

人権に関する世界宣言第一二条は、「何人も、その私生活、家族、家庭、通信に対する、専断的な干渉を受けたり、その名誉と信用とに対する攻撃を受けたりすることはない。人はすべてこのような干渉や攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。」と規定し、現代法の基本原則として人格権の保障を明らかにしている。そして憲法一三条はすべて国民が個人として尊重されるとともに、個人の幸福追及に対する権利は国政上最大の尊重を必要とする旨を定めている。この個人の尊重というためには、言うまでもなく国民相互の人格が尊重され、不当な干渉や攻撃から保護されることによつてはじめて確実なものとなる。従つてこのような憲法上の要請として人格権、並びにその主柱をなす名誉権が保障されているのである。

報道による名誉権侵害の事案においては、右の憲法二一条で保障された報道の自由が対立することになるが、法はこれについて刑法二三〇条、二三〇条ノ二の各規定をもつて右の両者の調整を図つており、この法理は民事法の分野でも同様に解されている。そしてこの対立は、誤報による名誉権の侵害の裁判手続の中では、報道の自由に由来する新聞記者の取材源の秘匿と名誉権侵害からの救済を求める公正な裁判を受ける権利との対立として現われてくることとなるのである。

三、(真実の発見と取材源の秘匿)

新聞の生命は何よりも正確な報道にあることは言うまでもない。この正確な報道をするための取材において取材源の秘匿が約束されることによつて初めて真実の情報が取材記者に提供されるという側面があることは否定できない。

その意味で取材源の秘匿は新聞記者の職業倫理であるにとどまらず、憲法二一条で保障される報道の自由を担保する手段として尊重保護されなければならない。

しかし、他方憲法上の権利である名誉権が侵害されたとき、国民はその救済を求めて裁判に訴えるのであり、これを憲法三二条が公正な裁判を受ける権利として保障しているのである。国民が公正な裁判を受けるためには、何よりも正確な事実認定による実体的真実の発見が必要不可欠であつて、そのためには可能な限りすべての事実が法廷で明らかにされることが要障されるのである。誤報による名誉権侵害の事案では、まず報道された事実の真実性及び取材の相当性が争われるのであるから、新聞記者に提供された情報の内容及びその内容の真否を、取材記者及び情報提供者の双方の証言を求めることによつて、明らかにしていくことが、実体的真実発見の第一歩であることは論を俟たない。しかし、新聞記者が法廷において、取材源の秘匿を理由として証言を拒むことによつて、本当に新聞記者が取材を行つたか否か、取材を行つたとして情報提供者の情報を誤つて取材していないかについて、明らかとならないために実体的真実の発見は阻害されると共に、国民の公正な裁判を受ける権利も著しく制約されることとなる。

このように憲法二一条で保障された報道の自由から導かれる取材源の秘匿と憲法一三条で保障される名誉権侵害を救済するための公正な裁判を受ける権利が対立矛盾することとなるのである。このように両者が共に憲法上の権利であることに鑑みるならば、一般的にその優劣を論じたり、あるいは一方のみを優位なものとして制度的に保障することは不可能である。

あくまで具体的事案に沿つてこの両者の対立矛盾につき調整する原理としての比較衡量によつて、取材源の秘匿を理由とする証言拒絶の適者が決せられなければならないのである。

このように、取材源秘匿を憲法上の権利としてとらえることにより、実定法上の論拠を欠くとしても具体的事案においては、証言拒絶が認められるケースも出てくるのである。

四、(民訴法二八一条一項三号についての原決定の誤り)

民訴法二八一条一項三号の解釈論から、新聞記者の取材源秘匿が、同号の「職業の秘密」に該当しないことは前記のとおりである。原決定は、新聞記者の取材源の秘匿を「職業の秘密」に該当すると解することにより、制度的に証言拒絶権を保障することとしたのである。ここには、先に指摘した公正な裁判を受ける権利ととの比較衡量によつて適否を決するという観点は没却されているのである。なるほど、原決定は、公正な裁判の実現の要請との関連で証言拒絶権の制約があることを論じてはいる。しかし、このように一般的に取材源秘匿を理由とする証言拒絶権を容認したうえでその制約を考慮するという論理は既に取材源秘匿を公正な裁判を受ける権利よりも優位に置いたものと言わざるを得ないのである。のみならず、かかる解釈は現実に種々の弊害を伴うこととなる。

まず、証言拒絶の主体を「新聞記者」とすることにより、およそ「新聞」と名のつくものに記事を提供するすべての者が含まれることとなる。しかし、本来自由な職業であり、国家資格による規制になじまない新聞記者を色分けすることは不可能であると共になされるべきではない。

このような無制限的な主体の設定が、名誉侵害の救済を求める裁判では、容易に証言拒絶を認め、公正な裁判を受ける権利が阻害されるのみならず、無責任な新聞記事をも全て放任する結果を招来することは明らかである。前述のとおり、取材源秘匿が真実の情報をもたらす側面があると共に反面、情報提供者の匿名性の故に、責任の所在を不明確にして、不正確あるいは虚偽の情報をもたらす危険があることに留意すべきである。

原決定は、このように、新聞記者の取材源の秘匿につき無理に実定法の根拠を求めるあまり、これを制度的に保障したうえ、一般的に公正な裁判を受ける権利に対し、優越した地位を保障したものであつて、このような解釈は憲法二一条の解釈を誤ると共に憲法一三条、同三二条に違反したものと言わざるを得ない。

五、(比較衡量)

1 前述の如く、憲法上の対立する利益の調整を図るには、取材源の秘匿によつてもたらされる利益と、公正な裁判の実現によつてもたらされる利益、即ち、基本的人権との比較衡量によるべきであり、比較衡量の結果前者の利益が、後者の利益を優越する場合にのみ、報道の自由の保障の当然のコロラリーとして取材源秘匿を理由とする証言拒絶が認められると解すべきである。

2 そこで、比較衡量をする場合の考慮されるべき要素について検討してみるに、先ず第一に、事件の性質が問題にされなければならない。新聞報道が先に述べた如き、二面性を持つていることに鑑みれば、報道機関が対国家との関係において当事者となり、国民の知る権利に奉仕する社会の公器性としての側面が問題とされている場合と、第四権と称されるまでに強大化した社会的権力である報道機関が、対市民との関係において当事者となり、その巨大な攻撃性としての側面が問題とされている場合とでは、秤にかけるべき利益の内容がまるで異なつてくるからである。報道の自由が憲法上の権利として法的に保障が賦与されるに至つた理由は、報道が国政情報を中心とする公的情報についての国民の知る権利に奉仕するからであり、従つて、本来的には、民主主義社会のオピニオンリーダーとしての国家の干渉からの自由を意味している。

それ故、ここでは民主主義を貫く立場から、報道の自由は社会の公器性の故に特権として最大限の尊重を受けなければならないという優越的地位の要請が妥当する。

これに対し、新聞報道が一市民の基本的人権を侵害したという場合には、新聞報道は、正に、市民にとつて国家にも匹敵する程の社会的権力者として立ち現れて来ており、ここでは、一市民の基本的人権が、国家からの自由と同様、報道機関という社会的権力からも守られなければならないという実質的配慮が働く。従つて、この場合には、報道の自由は、優越的地位を退き、基本的人権の尊重と対等の地位において利益の調整が図られることになるのである。

このような構造的差異が、憲法の解釈上、認められることに鑑みれば、当該事件において、報道機関が当事者としていかなる立場におかれ、報道機関のいかなる側面が裁かれようとしているのかの性格論を抜きにして考えることは出来ず、この意味において、事件の性質が先ず吟味されなければならないのである。

次ぎに、衡量の対象とされるべき要素は、事件の態様である。即ち、いかなる規模のいかなる性格を持つた新聞が、いかなる報道をなしたかが吟味されなければならない。本来、事件の態様は、違法性の問題と密接に関わるものであるが、当事者の社会的地位の対比、報道された記事の内容、その影響の範囲、度合を検討することはいずれも、被侵害利益の大きさを帰結することになるから、比較衡量にあたつても、考慮される必要があるのである。

先ず、主体であるが、一律に新聞報道といつても、商業新聞の地方紙、全国紙に初まり、政党の機関紙、ミニコミ、果てはブラツクジヤーナリズムに奉仕するゴロ新聞まで多様の目的をもつた新聞があり、これに規模の大小を加味すれば、無数の態様の主体が存在する。

そこで、被侵害利益の大きさを計るうえで、新聞報道をなした主体がいかなる規模のもので、その報道によつて、どの程度の影響力を持つていたものであるかを考慮する必要があることは言うまでもないであろう。報道主体の規模が大きく、影響力が大きければ大きい程、一般市民にとつて、その報道主体は、社会的権力者として現われてくることになり、これに比例して、侵害される利益は回復不能にまで至るからである。事件の態様の要素を考えるうえで、最も重視しなければならないのは、いかなる報道がなされたかという点である。報道の自由の認められる憲法的使命が、国政参与の機会を与える公的情報を提供するところにあるとすれば、その報道記事の社会的価値・換言すれば、公益性、公共性を備えていることが当然の要請である。報道された記事が国政情報を中心とする公的情報とは、全く無縁の一市民に関する私的情報にすぎない場合は右の公共性の要件を欠いており、社会の公器性の側面は大幅に後退し、却つて人権侵害の攻撃性の側面のみが表面に出てくるというべきである。従つて、同じ報道の自由に含まれるとしても、このような場合、衡量すべき利益の大きさとしては全く別異に取り扱われるべきは当然である。このような記事の性格を判断するうえで、新聞主体の持つている性格・目的が考慮されるべきも、また当然であろう。

第三に、考慮されるべき要素は、公正な裁判の実現の観点から要請される要証事実と取材源との関連性、及び取材源を明らかにすることの必要性である。

秘匿の対象となつている取材源そのものが、訴訟上の要証事実となつているか否かは極めて重要な要素である。もし、取材源そのものが、他の要証事実を立証するうえでの一つの証拠方法にすぎないのであれば、他の代替立証によることで、公正な裁判の実現を図ることは不可能ではないが、要証事実そのものにあたつているのであれば、取材源の秘匿は、要証事実の立証を不能ならしめることに帰し、公正な裁判による実体的真実の発見は不可能になつてしまうからである。

また、取材源そのものが、当該訴訟の上で、直接、証明を要する事実ではなくとも、訴訟上の要証事実との関連で、不可欠的証拠である場合には、これの秘匿を認めれば、結局、要証事実の立証を不能ならしめることに帰し取材源そのものが要証事実に該当する場合と同じことになるから、要証事実との関連性と同時に立証上、取材源を明らかにすることが必要か否かも吟味されなければならないのである。

第四に、考慮されるべき要素は、報道の自由の利益を擁護する観点から要請されるもので、取材源を明らかにすることが将来の取材の自由に及ぼす影響の度合及び一般的な報道の自由に与える影響の度合である。取材源の秘匿は、効果的な取材活動を可能ならしめるための前提であるから、当該取材源を公表することによつて、新聞記者と情報提供者との間の信頼関係をそこなうものであるか否か、ひいては、その公表によつて当該記者の将来の取材活動が制的されるか否かは、当然に考慮しなければならない要素である。もし、取材源の秘匿が一律に認められないとすれば、情報提供者との間に信頼関係を築くことは凡そ困難になり、効果的な取材活動が制約される結果、取材源秘匿が担保していた報道の正確性も危殆に瀕することとなるからである。従つて、取材源秘匿が認められることによる当該記者についての個別的影響と同時に、それが及ぼす、報道の自由一般に及ぼす影響も考慮されなければならないのである。

3 要約すると、比較衡量の基準としては、審判の対象とされている事件の性質、態様、当該報道記事の社会的価値、取材源と要証事実との関連性、取材源を明らかにすることの必要性、取材源を明らかにすることによる将来の取材の自由に及ぼす影響の度合、及び報道の自由一般に与える影響の度合等諸般の事情を考慮して決すべきということになるであろう。

六、(原決定の基準に対する批判)

原決定は、取材源の秘匿を理由とする証言拒絶権を認めたうえで、その具体的行使の限界を画する制約原理として比較衡量を考えている。これは、抗告人の主張する憲法レベルでの比較衡量とは適用の場面を異にしているが、相互に対立する利益の調整原理としては同一であるから、前記抗告人の定立した基準と対比して原決定の基準を検討する。

1 原決定は、公正な裁判の実現という観点から、「審理の対象である事件の性質、態様、及び軽重(事件の重要性)、要証事実と取材源の関連性及び取材源を明らかにすることの必要性(証拠の必要性)」の諸要因を挙げている。

「審理の対象である事件の性質、態様」という要因は、文言上は抗告人の定立した要因と同一であるが、性質として把握されている内容は著しく異なつていると言わなければならない。何故なら原決定二(四)(2)の基準の具体的適用を示す箇所において「本件訴訟は、原審被告たる新聞社による抗告人の名誉毀損を理由とする通常の一般的民事事件」と述べられているとおり、原決定は、事件の性質を特殊重要事件か否かと言つた専ら事案の重要性に着目して把握しており、報道機関が対国家との関係で当事者となつているのか、あるいは対市民との関係で当事者になつているのかと言つた構造的差には全く何らの顧慮をも示していないからである。このことは、衡量すべき要因として前二者に事件の軽重を加え、これら三要因を包括して(事件の重要性)として要約していることからも明らかである。苛くも一市民の基本的人権が侵害された場合に、その被侵害利益の程度の差はあつても、事件としての軽重ということはあり得ない。基本的人権の不可侵性は、何人にとつても等しく完全に保障されなければならないからである。従つて、事件の軽重を比較衡量の要因とすることは誤りであり、また、事件の重要性として事件の性質態様を把握することも比較衡量の基準としては誤りである。

2 原決定は、次いで証拠の必要性について、「右証拠の必要性は当該要証事実について他の証拠方法の取調べがなされたにもかかわらず、なお取材源に関する証言が公正な裁判の実現のためにほとんど必須のものであると裁判所が判断する場合において、はじめて肯定されるべきである。」と述べて、取材源に関する証言を求め得るには補充性と必須性が必要であるとしている。しかし、この要件の定立は、比較衡量論の否定につながり自己矛盾である。

前段階において比較衡量論を展開しておきながら、証拠の必要性につき、右補充性と必須性とを要求したため、結局、要証事実と取材源の関連性及び取材源を明らかにすることの必要性と言つた二要因は全く無意義に帰するに至つている。何故ならば、補充性と必須性を要件にまで高めてしまつた結果、立証方法の唯一性を基準として定立したことと同じになり、もはや個別利益の集積、対照の上に成り立つ比較衡量は全く意味をなさなくなつているからである。

実質的に見ても右の要件の定立は疑問である。

訴訟遂行上、要証事実につき、最も効果的な直接証拠による立証を考えるのは最良証拠の原則から言つて当然のことであり、また訴訟経済上もそれが要請されているのであり要証事実が取材源そのものであるからと言つて、この場合のみ他の立証方法を尽くした後に必要性を認められねばならない理由はないからである。また、必須性についても、取材源を明らかにすることが要証事実との関連でどの程度必要かの具体的判断の中で、ほとんど必須ということになれば、他の反対要因の存在にも拘らず、利益の優越が認められるだけのことで殊更に、ほとんど必須の場合だけ、取材源に関する証言が求められるのだと限定する必要はどこにもない。

対立要因である、取材源を明らかにすることによる将来の取材の自由に及ぼす影響が微弱である場合には、取材源に関する証言が、立証上ほとんど必須とは言えない場合であつても、他の利益の衡量の結果、証言が求められておかしくはないし、またそうあつて然るべきだからである。

従つて、原決定は、証拠の必要性について、右の補充性及び必須性を要件としたことによつて、自ら定立した比較衡量の基準を否定したものに他ならず、基準の定立としては失当である。

七、(本件への具体的適用)

原決定は、結局、比較衡量に名をかりながら、その実補充性と必須性とを要件とする「立証方法の唯一性」の基準に従つて本件の具体的適用を判断し、相手方に取材源についての証言を求めるには、未だ補充性、必須性ともに認められないとして、相手方の証言拒絶は理由があるとしている。この事は、原決定において、比較衡量の要素として挙げた諸要素の十分な検討もなされないまま簡単に次のとおり述べているところからでも明らかである。

「前記の通り概括的範囲において、その取材源を明らかにする証言を行つていること等を斟酌考慮すると、抗告人としては、これらの限定された範囲の取材源につき調査を実施する等適切な証拠収集の措置をとることによつて、前記反対尋問の目的とするところを実現することは不可能ではないと推測することができるから……本件につき公正な裁判を実現するためにほとんど必須のものであることを未だ肯定することができない」。

しかしながら、本件証言拒絶につき抗告人の定立した比較衡量の要素を逐一検討するならば、寧ろ逆に相手方の証言拒絶は理由がないとの結論に導かれるものである。

何故ならば、(一)本件訴訟は一市民が新聞報道によつて基本的人権たる名誉権を侵害された場合であつて、社会的弱者たる市民対社会的権力者としての新聞報道という対立関係のもと、新聞の「巨大な攻撃性」の側面が問題とされていること、(二)報道記事の内容は、保母である抗告人があたかも園児に対し暴行に及んだかの如き印象を与える推測記事であつて、読者の好奇心をあおる私的な情報にすぎず、国政参与のための国民の知る権利に直接奉仕するものではないこと、(三)本件訴訟の最大の争点は、自ら誤報記事を書いた記者の取材活動が適正であつたか否かの点にあり、証人島田英重記者が証言を拒絶した取材源即ち、取材対象者の氏名、住所、担当職務は、正に情報をだれからどのように収集したかという本件の要証事実そのものに該当するから、この証言拒絶を認めることは抗告人において、最も効果的な直接立証の方法を奪われることを意味すること、(四)相手方において概括的範囲において取材源を明らかにしているとは言え、園自体の非協力の下、抗告人において、「篠路高洋保育園の従業員五名のうち三名」を特定することは困難であるうえ、一市民に過ぎない抗告人の力をもつてしては「札幌北警察署の刑事二、三名」を特定することは至難の業であるから、他に実効性ある代替立証の方法も認められないこと、(五)他方相手方において、取材源を明かすことによつて相手方と情報提供者との信頼関係が破壊されるとは言え、取材源の秘匿もつまるところ真実性の担保にこそ目的があるのであるから、報道の正確性、真実性そのものが法廷の場に持ちこまれている以上、真実性の前にその道を譲るのが相当と考えられること、(六)報道の自由一般に対する影響も、人権侵犯事件の場合には寧ろ、真実性を積極的に立証することによつてかえつて真実性を生命とする新聞の社会的信頼が増すことにつながるから、報道の自由の危殆にまで及ぶとは考え難いことが諸要素の検討から明らかであるからである。

この点、原決定は基準の定立を誤り、具体的適用において、相手方の証言拒絶を理由ありと認めたことによつて抗告人の憲法三二条で保障された裁判を受ける権利を右の限度において侵害したことに帰するから、憲法三二条違反として取り消しを免れない。

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